
スポーツにおける「常識」とは、しばしば無意識のうちに人を縛る制約でもあります。
「ひとつのポジションに専念することが成功の条件」「プロの世界では専門性こそが価値」「両方を中途半端にやるくらいなら、ひとつを極めるべき」——そんな不文律が、フットボールにも、そして野球にも長らく根付いていました。
しかし、それを打ち破った存在がいます。大谷翔平——そして今、その背中を追うように、異なる競技で同じ扉を叩こうとしているのが、Travis Hunterです。
第1回では、彼がいかにして“二刀流の異才”としてのキャリアを築いてきたのかを振り返りましたが、今回は、同じく“二刀流”の大谷翔平と比較しながら、その挑戦がNFLでどのように受け止められ、どう展開していくのかを考えていきます。
大谷翔平が変えた「二刀流」の意味
大谷翔平がメジャーリーグに挑戦した当初、米メディアや評論家の多くは懐疑的な見方を示していました。春季キャンプで不振が続いたこともあり、「投打両立など幻想にすぎない」「打者としては高校レベル」「二刀流は無謀だ」といった厳しい声が飛び交っていたことは、今では半ば伝説のように語られています。
しかし、大谷はそうした評価をすべて実力で覆しました。2018年にはア・リーグの新人王に輝き、2021年には投手で9勝・防御率3.18、打者として46本塁打・100打点・26盗塁という前人未到の成績を残し、満票でMVPを受賞しました。シーズン当初にあった懐疑論は完全に消え去り、チーム内外の評価も「確信」へと変わっていきました。
さらに彼の活躍は、MLBの制度そのものにも影響を与えました。通称「大谷ルール」によって、先発投手が降板後も指名打者(DH)として試合に出場し続けることが可能になったのです。つまり、大谷の挑戦はひとりの選手としての成功にとどまらず、リーグ全体の構造を変えるほどの革新をもたらしたと言えるでしょう。
Travis HunterがNFLで挑む「二刀流」とは何か
その大谷と比較され、いまNFLに飛び込もうとしているのがTravis Hunterです。大学時代からCBとWRの両方でスター級の活躍を見せ、「史上最も多才な選手」と称されてきました。
しかし、NFLでは1つのポジションで活躍するだけでも至難の業であり、2つを両立するというのは、理屈の上では「不可能」とも言われています。
それでもHunterは、「両方やる」「片方だけなら、フットボールはやらない」と明言し、攻守両面でのプレーを貫く強い意志を示しています。
この“二刀流宣言”は、ファンの熱狂と専門家の議論を巻き起こしました。Deion Sandersのように「彼は両方を最高レベルでこなせる“ユニコーン”だ」と称賛する声がある一方、元NFL選手のShannon Sharpeらは、過剰な負担によるケガのリスクや継続性の難しさを指摘しています。実際、過去に両面で活躍した選手も、限定的な起用にとどまっていました。
しかしHunterは、その常識を覆すような実績をすでに残しています。
彼は2023年シーズン中、肝臓を負傷し一時離脱を経験しましたが、翌年には肩の故障を乗り越え、驚異的な回復力とパフォーマンスでシーズンを戦い抜き、1,200ヤード超えのレシーブ、複数のインターセプトを記録するなど、“二刀流”として実力を証明しました。こうしたパフォーマンスは、彼の信念が単なる理想論ではなく、現実的に通用する可能性があることを示すものであり、多くのNFL関係者の目を引く結果となりました。
それでもなお、多くのチームは彼の“二刀流”志望を尊重しつつも慎重な姿勢を崩しませんでしたが、JAXは彼の信念を受け入れて指名に踏み切りました。HCのLiam Coenは「大学と同じように、両方でプレーさせる。それがベストだ」と語り、NFLでも本格的な“二刀流”を実現させる意欲を示しています。
とはいえ、NFLの1試合で130スナップ近くをこなすような選手は今まで存在しません。つまり、Travis Hunterの挑戦は、「前例すら存在しない領域」に踏み込もうとしているのです。
二人に共通する哲学
大谷翔平とTravis Hunter。競技も環境もまったく異なる二人ですが、彼らの挑戦を支えている精神的な価値観や資質には、多くの共通点があります。
不屈の信念と揺るがぬビジョン
二人に共通するのは、周囲の懐疑に屈しない強い信念です。
大谷はメジャーリーグ挑戦にあたって、「投打二刀流でやる」という自身のビジョンを最後まで貫き通しました。入団交渉の際にも二刀流起用を譲らず、その方針に消極的な球団は、自ら候補から外すほど、姿勢を明確にしていました。
Hunterもまた、「両方やれないのなら、フットボールはやらない」と公言し、NFLでも二刀流を貫く強い意志を示しています。その背後には、「自分なら両方のポジションで主役になれる」というゆるぎない自己信頼があると言えるでしょう。
圧倒的な努力と自己改革の姿勢
二刀流を成功させるためには、才能だけでは足りません。常人以上の努力と自己改革の意識が欠かせません。
大谷はメジャーで挫折を味わうたびに、自らの課題と向き合い、進化を遂げてきました。2020年オフにはトレーニングメニューを一新し、早期から投球練習を再開すると同時に打撃フォームの改良にも着手しました。さらにシアトル近郊の施設で最先端のデータ分析や血液検査に基づく栄養管理を取り入れ筋力強化に努めるなど、科学的なアプローチで肉体を強化しています。その結果、翌春には球速160㎞超を計測し、オープン戦でも本塁打を量産するなど、劇的なパフォーマンス向上を実現しました。
一方のHunterも並み外れたトレーニングを重ねています。大学では攻守両方のプレーブックを理解し、自主的なコンディショニングで1試合100スナップを超える持久力を養いました。Deion Sandersは「彼ほど準備を怠らず両面プレーに挑んだ選手はいない。彼は決して音を上げなかった」と語り、日々の練習から試合に至るまでの努力を高く評価しています。
Hunter自身も「24時間のうち可能な限りをフットボールに費やす」と語り、競技への没頭ぶりと探求心の強さがうかがえます。
逆境を糧にするタフさと向上心
二人とも、逆境に直面した時こそ本領を発揮してきました。
大谷はメジャー移籍後すぐに右肘を故障し、トミー・ジョン手術によって2019年は投手として登板できませんでした。しかし、その間も打者として18本塁打を放ち、存在感を示し続けました。2020年には投打ともに不調に苦しみましたが、それをきっかけに前述のようなトレーニング改革を実施し、翌2021年には歴史的な活躍でMVPを受賞しています。
Hunterもまた、大学2年目の序盤で肝臓を負傷する大怪我に見舞われながら、わずか数週間で復帰し、すぐさま攻守でタッチダウンとインターセプトを記録しました。2024年にも肩を負傷しましたが、シーズンを通して出場を続け、最終的には全米最高の栄誉であるハイズマン賞を受賞するまでのパフォーマンスを維持しました。
二人に共通するのは、逆境を単なる試練ではなく、成長の機会として受け入れる力です。
チームへの献身と高い目的意識
どれほど個人能力が高くても、チームスポーツでは他者との協調と献身が欠かせません。大谷もHunterも、勝利のために自らの役割を柔軟に受け入れてきました。
大谷は投打の調整で多忙を極める中でも、チーム方針に応じて自分のルーティンを組み立て、「自己管理と準備を徹底するプロ意識」を見せているとコーチ陣から評価されています。
Hunterもまた「チームのために必要なら、どんなポジションでもやる」と語っており、攻守だけでなくスペシャルチーム(リターナーやガンナー)にも出場して貢献しました。
前例のない役割であってもそれを引き受けて勝利に貢献しようとする姿勢は、まさにリーダーの資質と言えるでしょう。
「新たな基準」になり得る存在
大谷翔平が成功したのは、天賦の才能だけが理由ではありません。自らの可能性を信じ、誰も成し得なかった努力を積み重ねたからこそ、「例外」ではなく、新たな基準となったのです。
Hunterにも、その資質は確かに備わっています。NFLという最高峰の舞台で、彼が前人未到の偉業を成し遂げる可能性は、決して夢物語ではないでしょう。
MLBとNFLの「二刀流挑戦」に見る構造的な違いと意義
大谷翔平とHunterの挑戦には共通点も多くありますが、それぞれの競技構造の違いによって、その困難さと意味合いは大きく異なります。
ここでは「試合スケジュール」「試合中の出場構造と負荷」「戦術と専門性の複雑さ」という3つの軸から、MLBとNFLの二刀流が持つ性質を比較します。
試合スケジュールとリカバリー構造の違い
MLBは年間162試合と試合数が非常多い一方で、登板間隔が設けられている投手と、DH制度による負担軽減が可能な野手という役割分担により、ある程度の柔軟な起用が可能です。
大谷はこの制度を活用し、登板日以外はDHとして出場するなど、日単位で役割を分散するスタイルで二刀流を実現しました。エンゼルスも6人ローテーションを導入するなど、登板間隔や体調管理に配慮した起用法を採用していました。さらに、大谷自身も試合前の打撃練習を室内ケージで短時間に抑えるなど、体力の温存と調整に工夫を凝らしてきました。その結果、投打の両立を1シーズン通して実現し、安定したパフォーマンスを発揮することができたのです。
これに対してNFLはレギュラーシーズン17試合と試合数は少ないものの、1試合あたりの強度と消耗が極めて高いのが特徴です。全力で60分間を戦い抜く構造のなかで、攻守両方に出場する選手はほぼ休みなく通常の2倍近いスナップ数をこなす必要があり、体力的な負荷は桁違いです。
試合の出場構造と身体的負荷
MLBとNFLはどちらも、”二刀流”といっても1つのプレーで2つの役割を同時にこなすわけではなく、投打あるいは攻守を“交互に”担う形式です。ただし、その交互性の構造と、プレー密度・休息可能性には決定的な違いがあります。
MLBでは、登板する日には投手として、登板しない日はDHとして打者で出場する形が多く、1試合中も打席の合間はベンチで休むことができます。つまり、プレーの合間に身体を回復させる時間と余地が確保されているのです。
一方NFLでは、Hunterのように攻守両方に出場する場合、シリーズの切り替わりごとに攻守連続でフィールドに立ち続ける必要があります。休息の余裕はほとんどなく、100スナップ超の出場は極めて異例かつ過酷です。
このように、形式上は“交互”であっても、出場の密度・連続性・疲労回復の可否といった観点で、NFLの方がはるかに過酷な構造を持っています。
戦術とポジションの専門性
MLBでは、投手と打者はまったく異なる役割を担いますが、それぞれの動作は比較的再現性が高く、個人技術に依存する場面が多いという特徴があります。戦術の理解も必要ですが、複数の役割を並行して担うことに対して、比較的柔軟な構造が整っています。
一方NFLでは、攻撃と守備でまったく異なるプレーブック・戦術理解・視野・判断基準が求められます。Hunterが担うCBとWRは、見た目の動きこそ似ているものの、プレーの意図や目的、戦術上の役割は完全に逆方向です。
現代のNFLでは、一つのポジションに集中するだけでもフィルム分析・戦術理解・身体調整に膨大な時間がかかるため、二刀流として両方を高いレベルで維持するのは極めて困難です。
Hunterは大学時代それを両立しましたが、NFLのゲームスピードと戦術複雑さは格段に上です。彼自身「睡眠以外は全てフットボールに使う」「大学では授業などもあったが、NFLではすべてをフットボールに費やせる」と語るように相当な覚悟で臨んでいますが 、NFLの世界でどこまでこなせるかは未知数と言えるでしょう。
HunterがNFLにもたらすかもしれない変革
MLBでは、大谷の活躍に呼応するかたちで「大谷ルール」の導入など、二刀流を制度的に支える動きが進みました。その結果、MLB全体が少しずつ柔軟な編成・起用へと変化しつつあり、マイナーリーグでは新たな二刀流選手も台頭し始めています。
NFLにおいても、もしTravis Hunterがこの極限の二刀流を本格的に成功させることができれば、それは単なる個人の成功ではなく、リーグ構造に変化を促す突破口となる可能性があります。
たとえば、一人で複数の役割を担える選手が増えれば、Roster枠の使い方やポジション概念の再編成、選手育成の方針すら変わるかもしれません。いわば、NFLにおける“オオタニ現象”です。
現状では、二刀流は依然として特例的な扱いですが、Hunterの存在が新たな起用の可能性をチームにもたらし、未来の選手像を広げるきっかけになるかもしれません。
次回予告
次回(第3回)は、なぜJAXは将来の1巡指名権を手放してまでTravis Hunterを指名したのか、という部分に触れていきます。
これまでのプレスカンファレンスでもその一端は語られていましたが、改めてHC、GMの発言などを踏まえて、この指名がもつ「象徴的意味」についてまとめます。
シリーズ一覧:“二刀流の異才”
- 第1回 Travis Hunterとは何者か
- 第2回 Travis Hunterと大谷翔平(今読んでいるページ)
- 第3回 象徴としての指名
- 第4回 ファンとメディア、そして未来